2015年12月28日月曜日

不思議


前回、「残念」を書いた翌日、
そう、「必ず、もっといいことがある」と、書いた日の翌日、
事務所のFacebookに異変があった。

見知らぬ海外の人が、「いいね」を押している。
まさかと思い、検索してみると、
海外建築メディアサイトが、わたくしの描いた家を取り上げていた。

媒体は何にしろ、自らが描いた家が美しい写真となり、
自らが書いた文章が、活字になるというのは、昔も今も変わらず嬉しい。
それも、英文だ。自分でも、読めない。

世界中から、3500以上の「いいね」。
内容を見ると、フランス、イタリア、イギリス、インド、中東、アフリカ諸国、韓国、台湾、アメリカ、ブラジル、中国等々。まさに、世界中から、人種、国籍、性別、職業、年齢を問わず。

6年前、この家が出来たとき、わたくしは、
「わたくしは、小さな家を造った。この家を、海を越え遠い街の人にも見て貰いたい」と、ホームページに書いた。

思うこと。強く思うこと。
思わなければ叶わないこともあると、実感した。

「cool!」と、コメントを残してくれた人もいる。
嬉しい。

悔しい日と嬉しい日が、一日違いで訪れた2015年の年の暮れ。

来年は、飛躍の年にします!

そう、強く、強く、物凄く強く思う。

有り難うございます。

2015年12月26日土曜日

残念




今か今かと待っていた通知。

三日三晩、大宴会の予定だった。


だけど、届いたのは、否定。


どうして。
 ・
 ・
 ・


必ず、もっといいことがある。
  

  

2015年11月16日月曜日

建築



建築は、たいそうなことなのか。
建築は、崇高なのか。

人は、生きるために、
暮らしていくために、
または、住むために、建築を行う。

僕は、美しい造形や、豊かな空間をつくるために建築をしているわけではない。
僕は、自分の建築を人に理解してもらうために建築をしているわけではないし、
建築というものを追求したいから、建築をしているわけでもない。

僕は、生きていくために建築をしている。

僕は、生活をするために、その基礎を学び、社会にでた。
そして、わずかな経験を積み、ごく限られた技術を身につけた。
そうして得たわずかな知識を、精一杯活用して、
少しでも人の役に立ち、生きていく糧を得るために建築をしている。

ただ、それだけである。
だが、それは、やさしいことではない。
そのためには、
その時々において、その場所において、
その建築主が建築を行う状態を知り、その範囲で、謙虚に建築を考え、
結果として出来上がったものを公表し、次につなげなければならない。

その手段の一環として、
大きなまたは専門の媒体で、その作品を発表できるということは、
有効であり、喜ばしいことである。

たいそうなのは、また、崇高なのは、建築ではなく、
人々が、生きていくということである。
そこを混同しないように、僕は、建築をする。


(9月の風ホームページより)
2006.10

2015年9月7日月曜日

滑走路に投げた手紙




テーブルサンゴや、枝サンゴの間から、

ビンショウ性の有る動きで、

熱帯魚たちが、見え隠れする。



エメラルドグリーンの海。

青い空。

ふりそそぐ太陽の光が乱反射する

水平線の中で、

君は、シュノーケルをつけて、

魚に、なった。



僕は、

南の島で、

魚になった天使を見た。



2015年8月20日木曜日

老犬





老犬は、眠っている。

それはそれは、穏やかな顔で。

 

きょうは、少し仕事を積み上げることができた。

こんなにも、仕事(生活)に苦しんだことが、かつてあっただろうか。

コツコツとまじめに取り組まなければ、いつまでたっても終わらない。

焦ればあせるほど、能率が落ちているようだ。

 

寒い朝、部屋の暖房を付けたままにしてやった。

温度・風量は控えめに。

老犬は、眠っている。オレのソファで、背をまるくして。

両足を、顔の前に揃えて。

老犬だって、辛いのだ。もう、あちらこちら弱っている。

眠っていることが、仕事なのだ。誰も、責めることはできない。

 

またあした仕事を、1ミリでも前に進めよう。

デザインで、社会に貢献するために。

仕事をしよう。

ほんの少しだけど、癒しの時を貰ったではないか。感謝。

 

 

 
 

2011.1.28

2011.1.29 加筆

2015年7月3日金曜日

寂しがり屋のポケット


セイヌの畔で
うずくまっている。若しくは、横たわっている。

サインペンが入ったポケット
集めたダンボールに
描き散らかした 遠い形


土方の服
煤けた髭


どうしても 嵌めてきたプラチナ


オレは、わざわざパリまで来て







ピカピカに 磨き上げられたレンガの色が混じった 黒い革靴
ダンボールを拾い上げる スーツの袖


蹴られないように
脇腹を覆うような恰好で ゆっくりと慎重に見上げる
どうか 蹴らないでください


「蹴りませんよ」 聞き慣れた言語


住宅でしょう

いいじゃないですか。 


2015年6月28日日曜日

疑似体験の疑似体験


いつもの浜に、行かれなくなってしまった。

いつもの浜に行くと、その時々抱えているあらゆることを忘れ、
一瞬の出来事の中で永遠のごとく時間軸が消える。
太古から繰り返されている寄せては返す波の音を聞き、
潮風に吹かれているだけの世界に入って行く。

云わば現世との乖離を体験していた。

さて、現世からの乖離が体験できなくなってしまうとどうなるのか。
それはね、別の方法で、疑似体験の疑似体験がしたくなるんだよ。

ボクは、何処へいくのでしょうか。
ボクは、どうなってしまうのでしょうか。

分かり易く書くとね、
疑似体験の疑似体験とは、体験ということ。

まずいよね。

2015年6月18日木曜日

自邸


人様から依頼を受けて、プレゼン用の模型を作っている相棒の傍らで、
そこそこ準備しなけれればならないシゴトを机に広げつつつい、
自邸の設計に熱中していて、ふと気がつきました。
あ、そうか、一生懸命考えているけど、
これって一銭にもならないんだ!
やばいな。

相棒が描いた我が家のプランを見ながら、
相棒の考えや好みを読み解きつつ、
オレは、こうしたいんだ!というプランを描いている。

過去最高に難しいよ、相棒へプレゼンすること。

何せ去年から離婚を迫られ、
最近ようやく相棒が描いたプランに、
自分とこどもと相棒のスペースがあることを見て、安堵したばかりだからなぁ。

オレはこうしたいなどと、そもそも未だ言える立場ではないのではと、考えてしまう。
そんな状況で、これ描いて、どうなるのかな。
金にもならないし。

まいったなぁ…。

だけど、建築家の端くれとして、
譲れない部分もあるんだよなぁ。

究極のローコスト、ローテク。コンクリートの小屋。
こんな納まり他人様の家じゃ絶対描けない、そんな家描いているんだ。
楽しみでしょう。(事情はさておき)

はたして、どうなることやら。


 

2015年3月12日木曜日

伊勢正三


17、8才の頃
同い年の少女を好きになった。

彼女に聞いた。
どんな音楽が好きなの?

彼女は、躊躇なく云った「伊勢正三」。

オトコは、
特にオレは、おさなく
彼女の説明を求めた。

知っている音楽だった。

オトナだなと思った。
オレが知らない人を知っている、大人だと。

夏の
小さな山に公園があって、
ささやかなお店があって、
かき氷を
木陰のベンチに並んで、

深い常緑樹の葉の色をした緑
遠い記憶。

  

2015年3月4日水曜日

ツイッター


ツイッターを実名で書いていると、ふと思うことがある。

時々同じ人が、返信をくれる。
ツイッターは、99%が、ツイッター名である。(個人的推測)

時候挨拶ついでに、「作品楽しみにしています。」とか、「陰ながら応援しています。」
等と書いてもらうことがある。

そんな時ふと、思うのである。
あれ、この人はもしかして、オレのこと知っている人なのかな?(そりゃ知っている)
もしかして、オレもこの人知っているのかもしれない…。
もしかしたら、今このガラス張り事務所前を通った学生さんだったりして…。
(妄想が脱線しそうになる)

ツイッターでは、周りの雰囲気に飲まれて、ついつい赤裸々トークを連発している。
元々自らの発信ツールとして始めたことなので、どうということはないのだけれど。

ふと思うのは、
作品等をマスメディアで紹介してもらい、それを100人の人が無表情に眺めるのと、
例えばこのように、数人から激励を受けること。
はてさてどちらが…

否、別にどうということではなく、ただこうして不毛な時間を仕事の合間に過ごしてしまった。
例のガラス張り中丸見え事務所で。