2020年3月8日日曜日

前田専用ハサミ




 前田とは、あの落合監督が天才と呼び、あのイチロー選手が尊敬すると言った、カープの前田選手。誰が見ても繊細で、神経質に見える。

 ある日、わたくしは、行きつけの床屋へ行った。そこの先生、もともと理髪店の主を、先生と呼ぶ習性がなかったわたくしだが、その先生は、いろいろな意味で、その意味は省略するが、やはり先生であり、わたくしが独立する前からの付き合いだ。その先生が、一本のハサミを持ってわたくしが座っている椅子の後ろに立った。このハサミは、前田専用のハサミだ。浩二でさえ使っていない。一本26万円。ここに、ベアリングが入っている。と、刃先と持つ方がクロスする小さな丸い蝶つがいを指して言った。ちょっと見てみろ、髪に片方の刃を軽く当てただけで、髪がすっと落ちた。これはソリだ。ソリが二本付いている。1ミリの三分の一まで、ずれずに切れる。鏡の中の先生は、冷静で淡々としている。いつもと変わりないように見える。

 そんな大事なハサミを、前田選手以外に初めて、わたくしに使うのだと言う。何が、おきているのか分からない。とにかくそのハサミで、わたくしの頭を刈り始めた。先生のことだから、前田選手が、脚光を浴び始める前から、おそらく15年は、前田選手だけの頭を、刈り続けたハサミだと思う。

 その時、先生は、突然何故か、わたくしを励まそうと思ったのだ。次は、また元のハサミを使うだろう。そうだとしても、そして、すでに二代目前田専用ハサミは、用意してあるとしても、びっくりする。有り難い。これほどまでに心から、激励されることはめったにあるまい。感謝する。




 2008.3