2013年2月18日月曜日

疲れている小学生


5年生の息子が、真顔で吐き捨てるように、つぶやいた。
「あー、疲れた」

小学生が、何を言っているのか、という言葉を、ぐっと堪え、呑み込んだ。

もしかして、
今の子どもたちは、本当に疲れているのかもしれない。

息子の一週間のスケジュールを、確認してみた。

4歳の時、
幼稚園に入られなかった(定員オーバーによる)ために通い始めた週1回の、英語教室。
(実際には、欠員があったため、5月くらいから幼稚園には行っている)

4年生から、通い始めた週3日の学習塾。
授業時間が、3日とも、18:00~21:20 。
加えて、年間8回あった授業日以外の模擬試験。

さらに、学校の宿題も、結構ボリュームがある。


子どもは子どもで、友だち付き合いもあるだろう。


そんな折、夕食前につぶやいた一言。


スポーツが得意な子どもは、
サッカーをしたり野球をしたり、水泳をしたり…。
聞くと、これまた大変だそうだ。
毎日の練習の上に、ほぼ週末毎に試合があって、
遠征も、珍しくないという。
こうなると、親も大変そうだ。

同じように、結構ボリュームのある宿題がある。


勉強にしても、スポーツにしても、
ちょっと、昔とは違うのかな…、取組み方が。


息子のつぶやいた一言が、
頭から離れないわたくしなのである。




2013年2月5日火曜日

Pure house


優雅な曲線を、荒々しい質感で造ろうと思った。

 

曲線は、女が本来持つ奥ゆかしい身だしなみによる動作と、社会の一線で活躍している人ならではの隆々とした躍動感を表した。また、その独特の淑やかな丸みに触発されてもいるということを、隠す必要もないと考えた。

荒々しさは、無骨で乾燥した表皮であるが実は繊細で孤高な男を表している。ようするに、密と粗の対比を試したのだ。一見相矛盾するこの取り合わせの真意は、自然への慈しみから導かれたものなのである。

建築をするということ自体自然破壊であるという事実に、更なる破壊を望まないという細やかな思いが込められている。

 

リサイクル合板。このような言葉自体、建築業界には無い。コンクリート打ち放し素地仕上げの型枠に、私が選んだベニヤ板である。一度は新品のベニヤ板としてどこかの建築で使用され、さらに次にどこかで使われたベニヤ板。意匠性を求められる場面では、用いることが無いと思われていたベニヤ板。しかし、コンクリート打設にはまだ十分耐え得る。それを使おうと思った。先述の理由により。

 

コンクリートは、如何なる仕度をしてどんなに慎重に打設したとしても、脱型してみなければ、どのような表情を見せてくれるか分からない。それはまるで、陶芸における窯出しのように。焼いてみなければ分からない、思わぬ表情を出すこともあるだろう。私は、この建築においてそのような思いを抱いた。それでこその芸術性。

しかし、建築家は単なる芸術家ではない。法律によってその造り出すものに対する厳しい規制があり、クライアントの健康と財産を守るという義務を負っている。技術者、建築士としての責任。その両者を併せ持つ者こそ、真の建築家と言えるのでないか。私には、その自信がある。だからこそ、このような設計ができたのだ。

 

地上に長座する造形は、静かで在りたい。シルエットは、限りなくシンプルに。

景色を取り込み、冷たい風を遮り暑さをしのぎ、鳥の声を聞き安寧の眠りから覚める。本を広げ、酒を飲む。緑の息吹を嗅ぐ。建築は何も語らず、風景の中にただそっと佇む。

さらに建築は、そこに暮らす人の好みや生活に合ったものでなければならない。居心地の良さとは、様々な要素が混在しているからである。そこを見誤ると、それは唯の建造物に過ぎない。建築の根源を追及し、その上で他が近づくことすらできない圧倒的な美しさ。それが、私の目指す建築だ。

 

私は、小さな家を一軒造った。海を越え遠い街の人にも、家という私の建築を見てもらえたら光栄である。